2008年06月16日
青空の中のクレーン
青い空・・
草津市は、草津駅・南草津駅の両駅前をを中心に毎年クレーンがどこかで数本ドン・ド~んと
街の中からニョキッと立ってます。
青空と赤白のクレーンの鮮やかな色合いからなんとなく画像に収めたもの
この再開発マンションも今年の4月には好評のなかで完売。。
駅前で暮らすのは便利でしょう。。
定住という意味で交通アクセスも良しで、、。
「草津市は、いつもクレーンが建って何か動いているって感じでいいですね~」
と羨望感をもってるのか嫌味なのか、ただ単に安直な思いなのかそんな言葉をよく聞く。
「は?冗談じゃない。。」
それは、それでたくさんの方の希望と引き換えにたくさんの方の「・・・・・。」がある
お商売を脈々と続けてこられた方から昔の話を聞くとイメージが出来ない草津の原風景(大げさ)が浮かんでくる。
うーん、悩みはつきません。。
今日は調子悪いなぁ

タグ :草津
2008年02月15日
喜劇王チャップリンとステッキ
突然ですが、元祖喜劇王のチャーリー・チャップリンの映画を観た方はどれくらいいらっしゃるだろうか?『キッド』『モダンタイムズ』『ライムライト』などの代表作品名は知って
いますが、作品名と映像が一致しないのが私のチャップリンに対する知識です
映画が喜劇とされながらも、私のイメージは作品シーンの随所に社会批判と「笑い」がウマく絡み、今でもワンシーンが注目されたりするのかなと思ったりしています。
もう一つ、チャップリンの誰しものイメージは、シルクハットにピチピチのジャケットとダボダボズボンにミスマッチな大きな靴とステッキではないでしょうか?
そのチャップリンのステッキ・・・実は草津と関わりがあります

チャーリー・チャップリンが愛用していたステッキは、草津の竹根鞭細工であり、時のロンドンでは「キムラ」とよばれていて有名ブランドだったそうです。「キムラ」=草津の木村熊次郎が明治の時代に竹根鞭を海外に輸出し、好評を得て親日家でもある「チャップリン」の目にもピンときたのが推測かなと思われます。
ある書物には、ロンドンに年間200万本も輸出されていたとか・・ロンドンから世界に販路を拡げた草津のステッキは、竹根鞭細工のもつ天然の風合、しなりが愛されたのではないでしょうか。。

先の毎日新聞にも掲載されていましたが、今ではその竹根鞭細工も草津市矢倉の瀬川工芸さんが、環境的にも厳しい状況ですが頑張っておられます。
ちなみに木村熊次郎氏は、時代の先見性もあり、幕末から明治にかけて大きく生活様式、食文化も変わるのを察知し、イギリスから乳牛を1頭買い、「牛乳」が世に出ると併せて市内で「木村牧場」として拡大されました。
・・・そういえば私が小学生の時の給食は、キムラ牛乳でした
2008年01月24日
お茶壷道中
「宿場界隈のお話」
昔の戦国時代のお茶に関するお話です。
お茶は、「万病の薬」ということで戦国時代あたりから大切な飲み物として扱われてきたそうです。
だからその時代は、「お茶」がどの家庭でも気安く飲めなかったそうです。
お茶は、お殿さんの飲み物・・
そのような時代背景のもと江戸時代にあの「生類哀れみの令」並みに、街の人を困らせて
いたのが「御茶壷道中」という行事だそうです。
3代将軍家光の頃からだそうですが、簡単には飲めないお茶は、お殿様が飲む物だから新茶の時期などお茶の節目に、江戸と京都(宇治)間を茶の壷が「大名行列」のようにたくさんの人馬を連れて行き来したそうです。
そして、そのお茶壷様が街道を通るときは、ハハーッ
と頭を下げて通り過ぎるまでひれ伏してなければいけなかったそうです。
大名さんでもない「壷」がさも仰々しく「下に~下に・・」てな感じで宿場街道をお通りになったそうです。
「お茶壷様~」って頭下げなかったり、お茶壷行列を追い越したりすると重罰が処せられたので、
市史等
を読むと、街道の住人は茶壷が通る時は、皆外に出ずに家の中に入っていたそうです。
あのわらべ歌にある、「♪ずいずい ずっころばし・・・茶壷に追われてトッ(戸)ピンシャン、抜けたらドンドコショ・・」の由来はこの迷惑な行列を街の人の力気持ちからきたそうです。
「・・茶壷が来たら家の戸をピシャッと閉め、過ぎたらホッ・・」という意味だそうです。
なるほど
江戸時代の街道に住んでいた庶民・風情は、非を非と言えずに、顔色伺い息をひそめてその行列を通り過ぎるまで待つより仕方がなかった少し、気の毒なお話でした。
今のご時勢は、「非を非」と是々非々論じて生きられる毎日に感謝
。。
昔の戦国時代のお茶に関するお話です。
お茶は、「万病の薬」ということで戦国時代あたりから大切な飲み物として扱われてきたそうです。
だからその時代は、「お茶」がどの家庭でも気安く飲めなかったそうです。
お茶は、お殿さんの飲み物・・

そのような時代背景のもと江戸時代にあの「生類哀れみの令」並みに、街の人を困らせて
いたのが「御茶壷道中」という行事だそうです。3代将軍家光の頃からだそうですが、簡単には飲めないお茶は、お殿様が飲む物だから新茶の時期などお茶の節目に、江戸と京都(宇治)間を茶の壷が「大名行列」のようにたくさんの人馬を連れて行き来したそうです。
そして、そのお茶壷様が街道を通るときは、ハハーッ
と頭を下げて通り過ぎるまでひれ伏してなければいけなかったそうです。大名さんでもない「壷」がさも仰々しく「下に~下に・・」てな感じで宿場街道をお通りになったそうです。
「お茶壷様~」って頭下げなかったり、お茶壷行列を追い越したりすると重罰が処せられたので、
市史等
を読むと、街道の住人は茶壷が通る時は、皆外に出ずに家の中に入っていたそうです。あのわらべ歌にある、「♪ずいずい ずっころばし・・・茶壷に追われてトッ(戸)ピンシャン、抜けたらドンドコショ・・」の由来はこの迷惑な行列を街の人の力気持ちからきたそうです。
「・・茶壷が来たら家の戸をピシャッと閉め、過ぎたらホッ・・」という意味だそうです。
なるほど
江戸時代の街道に住んでいた庶民・風情は、非を非と言えずに、顔色伺い息をひそめてその行列を通り過ぎるまで待つより仕方がなかった少し、気の毒なお話でした。
今のご時勢は、「非を非」と是々非々論じて生きられる毎日に感謝
。。タグ :草津
2007年12月03日
昔の写真より

先日、草津二丁目の西岡写真工房でお話をしていると、この店の代表の西岡伸太さんが大切に保存されている写真を見せていただく。
この写真は、1930年代らしい・・・
「えっ、戦前ですね・・!この賑わいは、、、?」
多分、草津大市の賑わいとのこと。
昔の草津は、「二季の市」と言って7月と12月に今の草津3丁目の立木神社から太田酒造さんあたりで大賑わいであった「市」が広い範囲でおこなわれ「草津大市」となって広く広まり、昭和30年代には衰退したそうです。
現在、4月におこなわれる宿場まつりにおいて「草津大市」と名をうって、市役所前の道路を通行規制し、宿場街道沿いの物販展ということで、多くの方々が出展し、1日限りの「大賑わい」で、多くの人の笑顔が見られます。
昔からの商店街の人々からは、昔は冷蔵庫もあまり普及しなく、街頭TVであった時代は、何もかもが通りの商店街で用が足せた時代だった。(まさに映画3丁目の夕日かな・・)
しかし、今は何もかもが多様化して時代の流れに乗れないまま「何とかしなければ・・」という思いはあれど・・
攻め倦んでおられる。
「昔の賑わい」は無理であっても、何とか一歩飛び出せるような仕組みづくりを皆さんと考えていきたいものである。
昔の撮影箇所と大体同じ場所から・・今はアーケードの中
よく見たら「カワサキ」さんとか・・
↓写真撮影場所
タグ :草津
2007年11月15日
昔、草津に競馬場がありました
かつて、草津駅西口(現Aスクエア敷地)には、競馬場があったそうです。

私が市役所に入庁した時は、今のエイスクエアはなく、綾羽紡績工場が
ドーンとありました。同級生も確か工場で働いていました。
平成8年に工場から今のショッピングセンター(エイスクエア)になった経過です。
その紡績工場のずっと前の昭和初期(S6年)に県下で初めての常設競馬場が
開設されました。その範囲は、定かではないようですが広さは約13haほどあり、
一周約1,000mのコースだったそうです。
総工費は当時のお金で10万円!(今の貨幣価値では??)

スタンドも2万人が収容でき、開設当初は大変な人気だったそうです。
開場初日は約7000人もの人が集まったそうです。・・・当時の草津町の人口が
7500人だったから、その当時の町民にとってはすごい活気的であったと思います。
戦争が激しくなるにつれて取り締まりも厳しくなり、その名も鍛錬競争場という呼び名に
変えられたそうです。戦争中は廃止されて、戦後に県営競馬として再開された草津競馬も、
昭和25、26年にはすっかりさびれ、再び復活することはなかったそうです。
・・・はい、ちょっとした今・昔のお話でした。
私が市役所に入庁した時は、今のエイスクエアはなく、綾羽紡績工場が
ドーンとありました。同級生も確か工場で働いていました。
平成8年に工場から今のショッピングセンター(エイスクエア)になった経過です。
その紡績工場のずっと前の昭和初期(S6年)に県下で初めての常設競馬場が
開設されました。その範囲は、定かではないようですが広さは約13haほどあり、
一周約1,000mのコースだったそうです。
総工費は当時のお金で10万円!(今の貨幣価値では??)

スタンドも2万人が収容でき、開設当初は大変な人気だったそうです。
開場初日は約7000人もの人が集まったそうです。・・・当時の草津町の人口が
7500人だったから、その当時の町民にとってはすごい活気的であったと思います。
戦争が激しくなるにつれて取り締まりも厳しくなり、その名も鍛錬競争場という呼び名に
変えられたそうです。戦争中は廃止されて、戦後に県営競馬として再開された草津競馬も、
昭和25、26年にはすっかりさびれ、再び復活することはなかったそうです。
・・・はい、ちょっとした今・昔のお話でした。
【競馬場画像:[ずっとKUSATSU]より】



